札幌本部 2024.09.10 札幌を足と目で学ぶ「歴史散歩」 新渡戸稲造夫妻が創設した札幌遠友夜学校の跡地を含む札幌市内中心部を歩き、明治時代から現代にかけての札幌のまちづくりや自然の様子を足と目で学ぶ、「歴史散歩~遠友夜学校時代の創成川の西と東~」が9月7日、開催されました。 催しは、当会が支援している「一般社団法人新渡戸遠友リビングラボ」(小篠隆生理事長)が主催。札幌建築鑑賞会の杉浦正人代表(北大教育学部卒)が案内人となり、参加した約20人の市民を引率しながら、各所で建築物や地形、まちづくりの様子などを解説しました。 一行が歩いたのは、南はススキノに近い南4条西1丁目の小路や同東4丁目の「新渡戸稲造記念公園」から、北は北3条西1丁目の「新渡戸稲造住居跡」、北1条西2丁目の札幌市時計台まで。計約4kmを約2時間半かけて巡りました。 このうち、新渡戸稲造記念公園では東4丁目側が標高がやや低く、公園との間に段差があることから、杉浦氏がその理由を「昔は豊平川の支流が近くを流れており、ここが河岸だった」と説明。その地形が今も残っていることを指摘しました。その上で、「つまり、ここは札幌の街の南東の隅で、豊平川に面していた場所で、東部の工業・流通地帯と、西部の住宅地帯の人々が利用する豊平橋のすぐたもとだった」と話し、交通の要衝でもあった点を強調しました。 また、新渡戸住居跡には現在ANAクラウンプラザホテル横に記念碑があり、杉浦氏は「ここに有島武郎も一年ほど同居していました」などと解説。一行は、「札幌農学校には歩いてもすぐだ」などを往時をしのんでいました。 【新渡戸稲造住居跡を見学し、杉浦氏(中央)の話に耳を傾ける参加者たち】 また、西1丁目の南1~6条のゾーンについては、仲通りが南北に走っている理由について杉浦氏が、「大友堀の流れを利用するため、堀の東西両側が物流基地だった。このため、両側の仲通りは南北に走っている。また流通団地だった南東部も同様です」と解説。札幌南西部と大通り以北の仲通りが東西方向であることとの違いを説明しました。 【西2丁目に東西に走る仲通り「都通り」に面する旧穂苅銘木の元倉庫を見学する参加者一行。一つ東(右)の西1丁目ブロックは仲通りが南北に走っている】 参加者の一人は「当時の豊平川の川巾の広さに驚いた。橋の近くに支流があったことから、雪解け時には轟轟と音が聞こえたとの話もうなずける」と話していました。また別の参加者は「仲通りの意味や、消えた河岸の様子など、初めて知ることも多かった」と話していた。 (事務局、写真は「さっぽろ農学校」特別講師・櫻井徳直) 最上段の写真:【新渡戸稲造記念公園(左)と東4丁目通り(右)の高低差などを見学する参加者たち】